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ヴァプールの闘将として、常にチームを鼓舞、 サポーターに愛され、常に礼儀正しい、謙虚な男、スティーヴン・ジェラード。 そんな彼が愛する、家族、両親、クラブチームとは? ?

この文章は2009年6月発売「FQ JAPAN」vol.11で掲載された内容です。
高額年俸選手の理想の家庭環境

「僕には、なによりも大切な家族が3つある。どれをとっても僕にはかけがえのない存在なんだ。いつも傍らで支えてくれている妻と娘、僕をここまで育て上げてくれた両親、そして僕にサッカーをプレーさせてくれるクラブチームに、心から惜しみない愛と感謝をささげるよ」。

そう語るのはイングランドプレミアリーグリヴァプールの主将スティーブン・ジェラードだ。「子供が、ずっと欲しかったんだ。少しでも早く身を固めて家庭を持ちたくて……。だから若いうちに子供をつくったんだ」。家族同士が親密な家庭で生まれ育ったジェラードは、クラブの若手選手たちが破格の年俸によって、贅沢な独身生活を謳歌する一方で、自分は人並みに家庭を築くことを選択した。当時21歳だった彼は、友人の紹介により1歳上のモデル・アレックスと出会い、その後、出会いから2年で長女リリー=エラが誕生することになる。チームメイトを鼓舞し、チームをリードしていく勇猛果敢なプレースタイルから、彼はファンの間では、「闘将」や「レッド・ドラゴン」などと称されている。だが、そんな彼も娘たちが誕生した際には、試合とはまったく違う一面を見せたらしい。

「あんな激痛に耐えるアレックスを目の当たりにするなんて、思ってもなかったよ。あいにく、どうあがいても僕には、身変わりになれないだろ。だから、とにかく妻を励まし続けたんだ。僕が所属するリヴァプールのサポーターが、僕らに声援を贈ってくれる以上にね。おかげで子供が無事に産まれた後の疲労といったら、試合の比じゃなかったよ」。

かなりの難産だった初産から18ヶ月後には、次女レクシーが誕生した。
ジェラードは世界のトッププレーヤーの名に恥じぬ年俸を得ているが、高額な私立病院での出産はあえて避けたという。

「たとえ僕が高額年俸のサッカー選手だからって、贅沢な生活をする必要なんてないんだ。できるだけ普通の生活がしたいと思ってる。僕が生まれ育ったようにね。特に娘たちには、謙虚な人間になってほしい。この考えは変えないよ。僕ら夫婦は、娘たちにとって、何が一番いい道なのか、を優先して考えていきたいね。世間から見たら、娘たちは恵まれた環境かもしれないけど、2人には堅実な生活をさせて、ちゃんと周りの人に敬意を払える人間に育ててあげるのが僕の責任だよ」。

彼は、何かを想い返すように続けてこう語った。
「そういう点では僕は父に似ているのかもしれない。彼は真面目な人間で、僕が学校のテストやサッカーでミスしても、責めずにいつも励ましてくれた」。

ちゃんと周りの人に敬意を払える人間に
育ててあげるのが僕の責任だよ


愛するふるさとgerrard04
そこで犯した1つの過ち

少年時代のジェラードは、リヴァプール市郊外にある、ハイトンの公営住宅の少年だった。ジェラードの家庭は貧しいハイトンの街でも、特に厳しい暮らしを強いられていた。それでも父は、塗装工事や道路工事など、家計の足しになる仕事なら何でもやった。そんな父親の背中を見て育ったジェラードは父を尊敬し、2人の絆は深い。前の空き地で日々サッカーに勤しんだ。ハイトンは地元では治安が悪い地域として知られ、彼が現在、家族と一緒に居を構えている上品なフォーンビーとはかけ離れた街だ。しかしジェラードは自分の故郷を決して忘れない。「ハイトンを見下す人もいるけど、何もわかってない。確かに荒っぽい街だけど、自分の故郷を記憶から消そうなんて全く思わない。僕は公営住宅で育った人間で、そのお陰で今の自分がいるんだから」。ちなみにそのハイトンは、ジェラードが現在、トレーニングを重ねている豪華なクラブチームの練習場から2㎞と離れていない場所に位置する。「僕は大人から見たら生意気な小僧だったかもね。でもね、何度か廃墟のガラスを割ったことを除けば、大した問題は起こさなかったよ。警官が家に押しかたこともほとんどなかったし……、唯一あるのは、雑貨屋で文房具をつい万引きをしたこと。店を出ようとしたときに警備員に捕まったんだ。店の裏にある部屋に連れて行かれて、警察を呼ばれた。もう、おしまいだと思って頭の中が真っ白になったよ。いつも通っていたサッカークラブにも通報されれば、退学だ。僕はそう覚悟したね。けど、幸いなことに、お説教だけで済んだ。それからはおとなしくしていたよ」。確かに万引きをしたことがあるとはいえ、ジェラードは周りに暴力をふるったり、車を盗むような不良少年ではなく、愛情に満ちた家庭に育つごく普通の少年だった。
ジェラードの家庭は貧しいハイトンの街でも、特に厳しい暮らしを強いられていた。それでも父は、塗装工事や道路工事など、家計の足しになる仕事なら何でもやった。そんな父親の背中を見て育ったジェラードは父を尊敬し、2人の絆は深い。「父はサッカーの素晴らしいところをたくさん教えてくれた。そして、過去にリヴァプールが優勝トロフィを掲げているビデオを山ほど見せられたんだ。だから僕がどの色のユニフォームを着てプレーするかということに、迷いはなかったよ」。
ジェラードは8歳になる前に、リヴァプールFCのユースチームに入ると、父は毎試合、最前列に陣取り、熱い声援を贈っていた。息子と同じユニホームを着て……。

「あの惨事で、サッカーで成功してやるんだっていう思いをさらに強くしたんだ」


闘将を支える
今は亡き従兄弟の存在

ジェラードのプレーを支えるのは、従兄弟のジョン=ポール・ギルフーリーにかける深い特別な思いだ。ギルフーリーは10歳のときに、1989年の〝ヒルズバラの惨事.(ヒルズバラ・スタジアムで起きた、観客の大量圧死事故)の最年少の犠牲者の名前である。当時9歳だったジェラードは、仲良しだったこの従兄弟の悲劇に大変なショックを受けた。ギルフーリーの名前は、リヴァプールFCのホームスタジアム、アンフィールド・スタジアムのにある追悼碑に刻まれ、ジェラードはこのスタジアムに来るたびに、ギルフーリーを思い出すという。

「僕はいつもジョン=ポールのためにプレーしているよ。彼がリヴァプールを愛する気持ちは、僕がこの赤いユニフォームに袖を通すたびに感じる想いと同じくらい強いんだ。彼が巻き込まれたあの惨事で、サッカーで成功してやるんだっていう思いをさらに強くしたんだ」。
両親離婚の衝撃
そして失意からの復活

2002年のジェラードは失意に暮れていた。彼の愛すべき長年一緒だった両親が離婚したのだ。ジェラードは幾度となく両親を説得する場を設けたが、結局、それでも夫婦の溝は埋まることはなかった。ゲームでは相手にリードを許していても、決して勝負を諦めない不屈の精神力をもつ彼も、こればかりは簡単には立ち上がれなかった。そんな彼ゆえに、この一大事はゲームにも影響を及ぼした。そしてチームからレギュラーの座を奪われ、サブからも外されてしまったのだ。

「両腕がもがれるような感覚だったよ。両親が離ればなれになる姿を見るのはとてもつらくて、しばらくはまともにプレーできなかった。プロとして、恥ずかしくもあった。でも、そんなときに、そばで見守ってくれたのは、妻と娘たちだった。彼女たちには本当に感謝してるよ」。
結局、辛いながらも現実を受け入れ、時間とともに調子を取り戻していくしかなかった。
ジェラードの実直さは、まさに彼自身そのものだ。連日クラブハウスに訪れる取材クルーには、親切かつ礼儀正しく対応する。派手なごついアクセサリーも、意味ありげなサンスクリット語のタトゥーもしない。「育ててくれた両親や家族のおかげで浮わついた人間にならずに済んだんだ。誠実だって言われるのも家族のおかげだと思う。自分でも昔と変わっていないと思うよ」。
その眼差しは、貧しい街とりわけ劣悪な環境の中でも決してめげずに、健やかに育った少年ジェラードのまま。家族の愛情がいかに大切なものであるかを証明するかのようだ。彼の関心は、もっぱら娘の将来に注がれる。
「最近は屋内の娯楽がありすぎて、子供が1日中、家の中で過ごすことになりかねない。でも、娘たちには絶対そうなってもらいたくない。そして彼女たちには何かスポーツを始めてほしい。チームスポーツなら、チームの一員として動くことや勝ち負け、フェアプレーを学べるしね。そういう経験は大人になったときに役に立つからね」。
(この文章は2009年6月発売「FQ JAPAN」vol.11で掲載された内容です。)