アヘン戦争

◆イギリス東インド会社設立!
1594年、オランダ遠方会社が驚くべき航路を取り、見事にスペインの独占をすり抜けて東インドへと到達しました。物事は何でもそうですが、不可能な(と思われている)うちは、なかなか進歩しません。しかし、一旦それが実現可能だということが分かると、ドンドン資本が投入され、発展していくものです。イギリス商人たちも例に漏れず、積極的に東インドを目指すようになります。そうして1600年12月。ついに、あの「イギリス東インド会社」が設立されます。正式名は、「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総督とその会社」。(Governor and Company of Merchants of London trading into the East Indies)長ったらしい名前ですが、これが「最初の」イギリス東インド会社。その後、2回ほど名前が変わりますが、それらを総称して、「イギリス東インド会社」と呼びます。イギリス東インド会社は、エリザベス女王から、「喜望峰マゼラン海峡の間にある全ての国との貿易独占権」を得ることに成功し、イギリスもようやく東インド貿易へ本格的に着手することになります。最初の航海は、設立翌年の1601年。215人の貴族や政治家などから資金を集め、そこそこ儲けることに成功しました。

オランダ東インド会社設立!
東インド貿易に注力したのはオランダも同じです。いくつもの貿易会社が立ち上げられ、たくさんのオランダ人が東インドへと赴き香辛料貿易に精を出しました。この時点では、オランダの方が先に東インドに到達したこともあり、イギリスよりも優位に立っていました。しかし、商人たちに自由に商売をさせていたため、困ったことが起きます。大量のオランダ商人が香辛料を買い漁りまくったため、需要が高まり、現地の香辛料価格が高騰してしまったのです。同時に、たくさんの香辛料が供給されたため、ヨーロッパの香辛料価格まで下落するようになります。せっかく命がけで東南アジアまで船を出しているのに、少しずつ薄くなっていく利幅。このまま放置すれば、儲けが航海のリスクに見合わなくなるのも時間の問題でした。その上、イギリス東インド会社まで進出してきたため、ますます競争は激化。そこで、慌てて「オランダ東インド会社」を設立することになります。それまでは、オランダ国内の各貿易会社が自由に貿易を行っていたのを、オランダ国王の名の下に、一つの巨大な貿易会社に統合したのです。過当競争を抑えるとともに、イギリス東インド会社に対抗できる体制を整えたのですね。なお、このオランダ東インド会社は、世界で初めての「株式会社」だと言われています。それまでの会社は、一度の航海毎に出資者を募り、航海が終わったらその出資金に利益を上乗せして分配して解散というのが普通でした。イギリス東インド会社も同じで、会社そのものは解散しないものの、やっぱり出資金は航海が終わるたびにいちいち精算していました。しかし、このオランダ東インド会社は、出資金は返さず、航海で得た利益だけを出資者に分配するという方式を取りました。一見違いがよくわかりませんが、大きながメリットがあります。一つは、面倒くさくない。航海を行うのにいちいち出資者を募る必要がないので、素早く行動できます。そしてもう一つは、事業をいちいち精算しないので、長期的な視野で戦略を立てられるという点。そういった意味で、オランダ東インド会社は、当時もっとも優れた会社だったと言えます。

アンボイナ事件とかいう大量虐殺
このころ、香辛料貿易で一番「旨味がある」とされていた地域は、インドではなく今のインドネシアでした。特に、クローブという貴重な香辛料が生産されたエリアは、「香料諸島」と呼ばれ、みんなの憧れでした。もともとはポルトガルがこの香料諸島を独占していましたが、オランダ人がこれを駆逐し、支配権を確立していました。そこへ、今度はイギリス東インド会社がちょっかいを出すようになり、小競り合いが繰り返されます。どちらの東インド会社も自前の軍隊的な組織を持っていましたので、けっこう本格的な戦争状態でした。この小競り合いが全然収束しそうになかったため、両国の政府は休戦協定を結びました。しかし、現地ではオランダの方が優勢だったこともあり、現地オランダ総督は、この弱腰な休戦協定にイライラしていました。そして1623年。悲劇が起こります。オランダ東インド会社がアンボイナ島で雇っていた傭兵の中に、七蔵という日本人がいました。彼は、日本人特有の真面目さから、自分が警備するオランダの要塞の防御力とか警備人員とかを聞いていました。オランダ総督は、ウキウキでこの七蔵を捕縛。スパイ容疑をかけ、物凄い拷問を掛けます。四肢切断、水責め、火責めのフルコースです。いかにSAMURAIと言えど、これには耐え切れず、「自分はイギリスのスパイであり、イギリスはオランダの要塞を占領しようとしている」と、オランダの希望通りの自供をしてしまいます。これを受け、今度はイギリス人30名以上を捕縛。同じように強烈な調査拷問を実施し、見事に全員から「自供」を引き出します。最終的に、イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名に死刑判決を言い渡し、斬首。完全に虐殺でした。この件は、最終的にオランダ政府がイギリス政府に多額の賠償金を払うことで、いちおう解決されました。この「アンボイナ事件」は一つのきっかけに過ぎませんが、こうした経緯の中で、東南アジアはオランダが支配する流れが決定的となりました。イギリスは競争に敗れ、東南アジア方面は諦めてインド貿易にシフトしていくこととなります。ちなみに、オランダが一生懸命独占した香辛料は、その後イギリスがその種子を持ち出し、新大陸で普通に大規模栽培を実施。けっこうありふれた商品に成り下がってしまいました。ざまあwww

◆インド最高!
実は、インドには、香辛料に負けないくらい「おいしい」商品がたくさんありました。目玉商品は、綿織物、そして紅茶。あとは硝石(火薬の材料)とか染料とかアヘンとか。これらは、当時のヨーロッパにおいて、香辛料に負けないほど人気の高い商品で、イギリス東インド会社とインド商人の両方に、莫大な富をもたらしました。結果オーライかもしれませんが、イギリスがインドにシフトしたのは大正解だったと言えます。このインドとの貿易を通して、イギリス東インド会社が世界に与えた影響は数知れません。その中でも、もっとも代表的なのは、産業革命のきっかけを与えたことでしょう。もともと、イギリスの代表的な産業は、毛織物でした。羊の毛を紡ぐタイプの布ですね。しかし、そこに、インド産の木綿を紡ぐタイプの布(綿織物)が殴り込みをかけます。インド産綿織物は、実に高品質で、しかも毛織り物より安価。ヨーロッパで爆発的な人気を博しました。イギリス東インド会社は、このインド産綿織物をヨーロッパに輸出しまくって莫大な利益を得ていました。が、やがてイギリス本国は、国内産業の保護を名目に綿織物の輸入を禁止します。でも、綿織物は欲しい…。そこで、これをインドから輸入するのではなく、イギリス国内で製造する工夫が進められました。たくさんの偉い発明家が画期的な紡績機械を発明・改良し、綿織物を製造する過程を機械化、大規模化していったのです。こうして、綿織物はインド産よりイギリス産の方が安価になり、逆にイギリスからインドへ綿織物を輸出するまでになりました。ただ、最初はイギリス産綿織物はあんまりインドで人気はありませんでした。というか、自分達で作れますし。そこでイギリス東インド会社は、インドの綿織物職人たちの手首を切断したり、目玉をくり抜いたりして、無理矢理イギリス産綿織物を売りつけます。こういう思い切った戦略を取れるところが、イギリス人の強さなのかもしれません。こうして、インドは輸出国から輸入国へと立場を変えていきましたが、輸入ばっかりしていると、インド国内にお金がなくなってしまいます。そこでイギリス東インド会社が考案したのは、またもや思い切った戦略でした。当時、イギリス東インド会社のイギリスは中国(清)からお茶を大量に仕入れていました。しかし、清が欲しがるような魅力的な商品は持っていませんでした。綿織物もあんまり買ってくれません。そこで、インド人にアヘンを作らせ、それを中国(清)に輸出。そのお金で清からお茶を輸入するようになったのです。イギリス(綿織物)→インド(アヘン)→清(お茶)→イギリス(綿織物)→インド(アヘン)→清(お茶)→…。見事な三角貿易です。こうして、清はアヘン漬けにされたわけですが、のちにアヘン戦争を引き起こすことになります。

◆貿易会社から支配者へ
18世紀中頃になると、イギリス東インド会社の性質が変質していきます。それまでは、なんだかんだ言っても民間の貿易会社であり、商売を通じて利益を得ることのみが活動目的でした。利益のために、脅したり騙したり軽く痛めつけたりはしましたがね。インドの支配者は、ムガル帝国という国。最盛期は、インド亜大陸のほぼ全域を支配していました。イギリス東インド会社は、このムガル帝国の太守(地方長官)とうまくやりながら、商売ができればそれで良かったのです。くどいようですが、別に領土拡張とかには興味はありませんでした。しかし、そのムガル帝国も、有能な皇帝が死亡したことにより分裂し、1740年代になると、インド国内は群雄割拠の様相を呈すようになりました。あちこちの太守(地方長官)が実質的に独立したような状態の中、ベンガル太守がイギリス東インド会社の要塞を襲撃しました。これを正当防衛的に撃破したことをきっかけに、イギリス東インド会社ベンガルに傀儡政権を樹立。自分たちの息のかかったインド人をベンガル太守に据え、搾取を繰り替えすようになります。あまりにもやりすぎて、新太守が反乱を起こしたりもしますが、結果はもちろん返り討ち。もはや、イギリス東インド会社に対抗できる勢力はいなくなりました。ムガル帝国皇帝は、イギリス東インド会社ベンガルの財務長官に任命し、「徴税権」や「行政権」を与えます。というか、与えざるを得ませんでした。その後もイギリス東インド会社は進出を続け、1800年代にはインド亜大陸のほぼ全土を統治するまでになっていました。こうして、イギリス東インド会社は、それまでの貿易商人という存在を超え、インドの「支配者」となっていったのです。もっとも、所詮はいち民間会社。行政や徴税、治安維持といった業務も、はじめは不慣れでうまくいきませんでした。しかし、イギリスの偉いところは、キチンと工夫して手を打つところ。インド人が納得する法体系が必要だと思えば、ヒンドゥー語で書かれた膨大な判例集を英語に翻訳して、インドの文化を研究。これは、東洋文化研究のはしりでした。インド人を使った徴税がうまくいかないと分かれば、イギリス人に高給を払って徴税させる制度を考案。軍事力が足りなければ、現地人を兵士として雇用。これらすべてがうまくいったわけではありませんが、統治はそこそこ順調でした。しかし、一方で、イギリス本国では産業革命を経て自由経済への要求が非常に高まってきており、イギリス東インド会社の貿易独占を疑問視する声が挙がるようになってきました。イギリス東インド会社の貿易独占は、王様からの特許状によって与えられているわけですが、20年ごとに更新されていました。それが、こうした声に押される形で、1813年にインドの独占権が更新されず、1833年には残るすべての独占権が終了。こうして200、年以上にわたる貿易会社としての役割は終焉し、以後はインドを統治するという役割に専念することになりました。

◆インドを支配した結果www
1857年のこと。イギリス東インド軍の中に、ある噂が流れます。「ライフル銃の弾に、牛や豚の脂が使われているらしい…。」当時のライフル銃は、火薬と弾丸が紙で包まれていて、包み紙を噛みちぎって火薬と弾丸を込めるタイプのもの。そのグリース代わりに牛や豚の脂が使われていたのは事実でした。イギリス東インド会社軍に所属する現地人の大半は、ヒンドゥー教徒イスラム教徒。紙を口に入れた時点で禁忌を犯すことになるのです。イギリス東インド会社はこの噂を否定しましたが、この騒ぎはおさまりません。かねてより、インド人兵士は安月給や海外赴任などへの不満がありましたし、そもそもイギリス東インド会社のせいで多くの人が没落したり貧乏になったりして、インド人はイギリスを恨んでいたわけです。そういった火種が一気に噴出し、インド北部を皮切りにインド全土で反乱が起こりました。とはいえ、装備が段違いだったので、ほとんど勝負にはなりませんでした。敵の弾が届かないところから一方的に射撃することで、イギリス東インド会社軍は反乱軍を圧倒。さらに、二度とふざけた反乱を起こさせないために、捕虜を見せしめに虐殺したりもしました。例えば、むりやり牛や豚の血を飲ませてから処刑するとか、捕虜を大砲にくくりつけて、発射!とか。おかげで、たったの2年で無事にインド大反乱は収束したものの、さすがにやりすぎでした。イギリス政府は、東インド会社のインド統治権限を全て没収。イギリス東インド会社の250年以上にわたる歴史は幕を閉じました。

インドの統治に関しては、イギリス国王がインド皇帝を兼ねるイギリス領インド帝国を成立させ、第二世界大戦終戦まで、インドを植民地として統治し続けましたとさ。

腹筋崩壊ニュース「インドを支配した結果wwwwwww」より